クリスチャンとして生きる

 今私はグループホームで一人暮らしをしている。  そこで気が付いたのが自分の生きる道は自分で切り開くこと。  それに私は自分の心と体にいろいろな病を持っている。  病気とは自分で治すことだ。  しかしその病気に甘えず戦うということは至難の業だ。  つまり病気に甘えるとどんどん病気が重くなるということだ。  この二点について私一人になって十分に思い知らせた。  またクリスチャンとしても約二か月以上教会の礼拝に行っていない。  早く兄弟、姉妹に会いたいものだ。  そして安心させたい。  今私はきゅかいに行けないのでホームでツィッターをやっている。  つまりツィッターで福音を伝えたいからである。  自分の足で歩いて神様のことを語るとすぐに宗教の勧誘だと誤解されやすいからだ。  全く知らない人に声さえかけるのは大変私には勇気のいることだ。  どうしたらクリスチャンとして福音を伝えようとして思いついたのがツィッターであった。  だけどいきなり書いても人には何が何だかわからない。  だから優しく書いて教会にまず興味を持ってもらうところから始めた。  教会へ行くのは当たり前のことであって、礼拝をささげることもクリスチャンとして当たり前のことだ。  しかし今の私には体の具合が悪くて足を運ぶことがとてもではないがそれが出来ない状態なのである。  これをどのように知ってもらおうと思うが知らせるへだてさえない。  むなしさが体の中を風が吹くように去って行く。  そこでどうしても教会へ行かなければという気持ちが焦りに変わる。  みんな兄弟、姉妹なのだからと思えば思うほどである。  心の中に余裕がなくなる。  もう今日は日曜日の深夜になってしまった。  つまり土曜日の夜中である。  主はい生きてている。主は私と共にいる。そして強い信仰心を持って生きろといつも私自身にいつも訴えている。  こんな日々が毎週続いている。  教会の外でも必ず何かをしないといけないといつも思っている。 つまり教会に行っても教会の中だけで信仰心を持っていて生きるということはダメなのだ。  本番が始まるのは教会を出てからである。  教会を出てから今日の礼拝をどう生かせばいいのかということだ。  そこで今日一日の有無がはっきりする。  教会の中だけで固まって聖書の中身について話し合っているだけではだめなのである。  それを教会の外でどのように生かせばいいのかというところに重要な問題がある。  あのパウロは多くのクリスチャンを迫害したではないか。  しかしキリストの言葉によって立ち帰り遠くへ出かけ福音を伝えたではないか。  私もそのようになりたいのだ。  難しい啓示や託宣を宣べてもそれは無駄である。  知らない人には知らない人にはわかりやすく話さなければならない。  よく街頭演説でクリスチャンがキリスト教のことに述べているが多くの人々はそれに耳を貸さない。  日本の国には宗教がないのだ。  つまり自由宗教ということだ。  それに戒律や厳しさをなぜか忌み嫌う。  それが日本人だ。  それに安易に自由という言葉を盛んに言う。  人間に何をもってして自由が与えられるのだろう。  本当の自由は契約を守るところから始まる。  しかし残念ながら今の日本人にはルールやモラルがまったくない。  約束は誰にでもできるがまたすぐに破ることもできるのだ。  だから契約と約束は全く違うのだ。 外見をどんなに着飾っても心がそれに伴わなければ無に等しいのである。  外見と心が一致しなければだめなのである。  そこに社会で生きる難しさがある。  クリスチャンには今の「いじめ。」は存在しないのだ。  いやそれは遠い昔からである。  つまりそうした迫害に忍耐することを学んでいるからである。  遠い昔にさかのぼれば日本の国は戦前は男女混浴でまたモラルも守られていた。  また性犯罪も今のようにはほとんどなかった。  それだけ治安が良かったのかもしれない。もちろん表社会に限るが。  そして終戦から日本は大きく変わった。  日本語が米軍のとの話し合いで当用漢字が消えて平仮名とアルファベットの二文字にしようと米軍の提案があった。  しかし日本の偉い人が何とか漢字、ひらがな、カタカナだけは残してほしいと言った。  その結果文語が消えて今に当たっている。  昔つまり戦前は文章を書くときは文語で書いていた。  それが交互で書くようになった。  また男女混浴も良くないと言われ戦後からは別々になった。  それからである。  性的犯罪が増えまた治安も悪くなってきた。  そうした時代を経て今日に至っているのである。  今の人はほとんどそれを知らない人だらけであろう。  またもう一言言わせてもらえばあの動揺でさえ作詞作曲が大きく書き換えられた。  そうして兵隊という言葉の入った動揺などは全部書き換えられた。  そして現代にいたっている。  果たして今のクリスチャンだってそれだけのことを知っている人も少ないであろう。  ただ神に祈るということは誰にでもできる。  しかし祈りには信仰が伴わなければいけないのだ。  そこに本当の祈りがあると私は思う。  教会だって出入り自由だが何の不自由のない人が行くところではないと思うが、言葉に語弊があるが、教会は心に思い煩いのある人や、悩みのある人、それに病人の人が行くとところだと私は思っている。  そして心と体を癒してもらい救ってもらうところだと私は思う。  今の世の中なぜかセクハラやパワハラを使う人が多い。   しかしこれは外国から入って来たものである。  だからもともとは日本の国になかったものだ。  しかし今の日本人は新しい言葉を使うとすぐにそれを使いたがる。  だから傷ついたの、傷つけられたのと大騒動になる。  昔はそんなものが存在しなかったから自分で何でも傷つけられたらそれを自分で癒す力があった。  つまり今の人よりも忍耐力があったといことだ。  耐えに耐え、辛抱して辛抱して耐え抜いていた。  しかし今の人は違う。  我慢が出来ないのである。  だからいじめられたり自殺が起こったりするのだ。  誰がこんな世の中を造ったのだろう。  そして虐待が増え、育児放棄まで怒っている。  もちろん性犯罪もますます増えている。  満員電車で痴漢をするのが当たり前だ。  犯罪の判断さえ消えてきているのだ。  これはとても恐ろしいことである。  クリスチャンである私はそういった時代の流れの中を生きて来ている。  そのためにもクリスチャンがクリスチャンらしく立ち直るべきである。  奪回したり追放されたりする人間を減らすことである。  そうしなければ真のクリスチャンは出来ないであろう。  また出来ないであろうと私は思う。